Marathon About

マラソンの由来(概略)
紀元前490年の9月12日にマラトンに上陸したペルシャの大軍を、ギリシャの名将ミルティアデスの奇策で撃破し、その勝利を伝えるため“ピリッピデス”(ペイディピデス、フェイディピデスとも書かれる)という兵士が伝令となって、マラトンからアテネの城門まで走り抜き、走り抜いたピリッピデスは勝利を告げたまま絶命したと云われている。この故事がマラソンの起源とされている。9月12日はマラソンの日。

マラソン・レース「42.195km」の誕生(概略)
その故事を偲んで、1896年の第1回アテネ・オリンピックでマラソンが行われた。当時のオリンピックのマラソンの距離は約40kmだったが、マラソンが 42.195キロとなったのは、1904年第4回ロンドン・オリンピックのマラソン・コースが起源である。これは、当初は26マイル(約41.842944km)で行なわれる予定だったのを、競技場の貴賓席に観戦に来ていたエドワード7世(アレクサンドラ王女の説もある)の目の前をゴールにする為に385ヤード(0.352044km)長くなり、42.195kmに変更したものと伝えられている。しかし、国際陸連アブラハム委員長が26マイルのコースを設定したが、385ヤード長くなって、たまたま42.195kmになったというのが真相のようだ。このように42.195kmは偶然の産物であって、マラトンの野からアテネまでの距離(1927年に国際陸上競技連盟がマラトン-アテネ間を計測したところ36.75km しかなかったという。)というのは俗説にすぎない。ちなみに、この距離が国際陸上競技連盟により、正式に採用されたのは、1924年第8回のパリ大会からだ。では何故それまで定着していなかったマラソンの距離がこのロンドンオリンピックを以って42.195kmに定着したのか?それはこの大会での事件によるものだという。その大会で最初に競技場に到達したイタリアの選手ドランドはゴール直前で倒れ、役員の助力でゴールしたため、のちに失格となった(ドランドの悲劇)。失格となりながらも多くの人々に感動を与えたビエトリ選手を称えるため、規定の距離を定める際、ロンドン大会の距離を採用したという。

オリンピック 距離km 優勝者 記録 国籍 完走者
第1回 1896 アテネ 39.994 (or 39.909 or 36.750) ルイス 2:58:50 ギリシャ 17人/25人中
第2回 1900 パリ 40.260 ミシェル・ティトー 2:59:45 フランス 9人/26人中
第3回 1904 セントルイス 39.909 ヒックス 3:28:53 アメリカ 14人/31人中
非公式 1906 アテネ 41.842 シェーリング 2:51:23.6 カナダ 34人/53人中
第4回 1908 ロンドン 42.195 ジョン・ヘース 2:55:18.4 アメリカ 28人/56人中
第5回 1912 ストックホルム 40.200 ケニス・マッカーサー 2:36:54.8 南アフリカ 34人/67人中
第6回 1916 ベルリン 中止
第7回 1920 アントワープ 40.244 (or 42.747) ハンス・コレヒマイネン 2:32:35.8 フィンランド 35人/42人中
第8回 1924 パリ 42.195 アルビン・ステンロース 2:41:22.6 フィンランド 30人/59人中

『マラソン』高橋 進(講談社1981.12.1発行¥2,000)P9~P14

1.マラソンの由来
3300年の昔、ギリシャではミケーネ文明で一時代を画した王国がくずれて、ギリシャ人の大移動があった。これを契機に数百年の間に種族は分裂し、それぞれが丘に城壁をめぐらして城を築いて「ポリス」という都市国家を形成していった。それはたんにギリシャ本土だけでなく、エーゲ海を越えて対岸の小アジア(現在のトルコの西海岸)にのびたのであった。
ポリスのなかでもアテネ(佐賀県の広さ)とスパルタ(広島県の広さ)は群をぬいて大きく、人口も20~30万人を擁して強力な国家であったが、他はほとんどが小規模で、最盛期には200をこえるポリスがひしめいていた。これらがときには同盟を結び、ときにはあい争って武力に訴えていたが、争いの原因は土地と奴れいの奪いあいが主であった。
だが、紀元前776年に始まったオリンピックの行事が4年ごとに開かれる期間ちゅうは、おたがいに戦争を手びかえて選手を送るほどの全ギリシャ的な連帯感と民族意識をもっていた。
他方、ペルシャ湾に臨む小さな地域から興ったペルシャ王のキュロス2世は、紀元前559年に即位して、たちまち四隣を圧し、やがて西方に触手をのばしてリュディアを征服した。これがペルシャがアジアの先端に立ってギリシャと直面した発端であった。
キュロス王のあとをついだ王が戦死したあとに即位したのがダレイオレス1世で、ときに紀元前522年であった。大王は首都スサを中心に王道を建設し、あるいは「不死身の1万人隊」をつくって大部隊の中核とするなど、軍備の充実と版図の拡大に寧
日がなかった。このペルシャの隆盛はギリシャにとっては大きな脅威であった。
おりしも紀元前500年、ギリシャの植民都市ミレトスが蜂起してペルシャに抵抗したのが引き金となって、イオニアの諸都市も呼応し、さらにはエレトリアとアテネは援軍25隻を送ってこれをたすけたが、たちまちペルシャの反撃にあって鎮圧された。しかしダレイオス大王の激怒はおさまらず、食事ごとに「王よ、アテネを忘れたもうな」と3回召使いに言わせて、増悪の念を深くし、復しゅうの決意を固めていった。
前492年ダレイオス大王は、トラキアとマケドニアを手中にするため大事をもよおして、陸海に分かれて将兵を派遣した。しかし海軍はアトス沖大暴風雨にあい、艦船300,兵2万人を失って挫折してしまった。翌年大王はギリシャ諸都市に号令を発して帰順を促したが、アテネとスパルタは使者を葬って回答とした。
ダレイオス大王は怒り心頭に発した。前490年の夏、三層櫂の大型輸送船600隻に2万人の将兵と軍馬を満載してエーゲ海へと船出した。キクラデスの島々を征服しながら進撃し、まずエレトリアを陥落させて、住民を奴れいとしてメソポタミアに売り飛ばした。その余勢をかって9月上旬にはマラトンの野に上陸したのであった。
ここがペルシャ軍の切り札の騎兵隊が活躍するのにつごうがよく、アテノの意表をつく作戦だったとみられる。
マラトン上陸の報はアテネを混乱させた。10の部族から1名ずつ選ばれた10人の将軍が軍議をはかったが、和平組と抗戦組に分かれてあいゆずらず、いたずらに時間が経過するだけであった。抗戦組の軍頭にたつ将軍ミルティアデスはペルシャの情勢にくわしく、和平すれば降伏と同じこととなってギリシャが滅亡することを予知していたから、10人の将軍のほかに軍議に加わる権利をもつ軍事長官を説得して味方につけた。これが決め手となって衆議はやっと決戦へと傾いた。
すぐさまオリンピアの勝者とも飛脚ともいわれているピリッピデス(ペイディピデス、フェディピデスとも書かれる)が使者にたってスパルタへと援軍の依頼に急行した。
スパルタまでは230kmあまり、赤茶色にはげあがったゴツゴツした山並み、荒涼として砂塵が舞いあがる悪路の連続である。私もペロポネソス半島のこの道を君原選手と旅したが、満目すべてセピア色にぬりつぶされた山々とやせ地がつづき、2500年の昔に伝令がどうして走っていったか想像もつかなかった。
その道をピリッピデスは走りぬいて、2日後にはスパルタに到着している。彼は元老に訴えた。「勇武をもってはギリシャに並びなきスパルタ人よ、いま異民族にじゅうりんされようとしているアテネは決然として立ちあがり、マラトンの野で3戦いを交えようとしている。この苦境を傍観することなく援助を与えられんことをアテネは心から願っている。」
元老たちは協議のうえ援軍を約束した。だが今すぐではないという。おりもおり、スパルタはカルネイオス月にあたり、7日から満月の15日までの9日間はアポロンのお祭り期間であって、満月が過ぎないと軍隊は動かせない戒律があった。
「それまでの6日間をもちこたえるよう武運を祈る」という回答は、単独で戦う決意を固めねばならないアテネにとっては急を要することであり、ピリッピデスはくるとき以上に急いで帰らねばならなかった。綿のように疲れ鉛のように重い脚をひきずりながら、ひたすらアテネへと走った。
2日後230kmの道を走破してアテネに帰着したピリッピデスは、すでに全軍がマラトンへと出征していたため、またマラトンまでボロボロにすり切れた肉体をむちうって必死に走らねばならなかった。
ペンテリコン山の山すそからイカリヤ村に出ると眼下にマラトンが一望される。はるかかなたに幾百条となく天へと筋をひいている炊煙が、徴用兵をあわせて10万と誇示されているペルシャの大軍の厚さを知らせてくれる。それにくらべてアテネ軍はコトロニ山とアグリリヤ山にはさまれた谷間でひっそりと布陣していて、戦わないでもすでに勝敗の帰趨は明らかであるかに思われた。
ピリッピデスは気をとりなおしてミルティアデス将軍に一部始終を報告した。
アテネ軍がマラトンに到着して今日まで、小ぜりあいひとつなく、両陣営のにらみ合いが無気味につづいていた。
アテネ軍は10人の将軍が1日ごとに交代で総大将としての指揮をとることがきまりである。自分の板がまわってきても、だれ1人として打ってでる決断も勇気もなかった。抗戦を主張したグループの将軍たちは、総大将の順番がまわってくるとミルティアデスに権利を譲ったが、ミルティアデスにも戦機をつかむことはできず、一寸のばしにのばせば満月が過ぎ、スパルタの援軍がくるという思わくもからんで、へたに動けなかった。
9月21日未明、やせた月が西天に傾いて沈むコロ、ペルシャ軍の陣営からこっそりと人影がアテネ軍へともぐりこんだ。むりやりに徴用されたイオニア人が密告にきたのであって、その内容はアテネ側をおどろかせた。
「ペルシャの騎兵隊がアテネを襲撃するため船に乗った。今日の午後には海路からアテネ外港に奇襲上陸の予定だ」というのである。将軍たちはとまどった。しかし、運よくミルティアデスの指揮する日にあたっていたため、そくざに決断が下された。一刻の猶予もなく即戦即決のみ。アテネ市も累卵の危うきにある。10倍の敵に当たるには、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあるというもので、捨身の突撃以外に手段はないと、悲壮な決意が全軍に伝えられた。
部族ごとに点呼と作戦の伝達があって配置についた。このざわめきでペルシャ軍も決戦の時期到来を察して態勢ををととのえた。中央の主力をはさんで両翼1500mに散開したのである。
ミルティアデスはこれをみて、作戦の手直しをした。右翼に軍事長官、左翼にプラタイアイの援軍を配し、この両翼を八重と厚くし、中央は四重とうすくした。敵はこの手うすな中央を突破してなだれこんでくるだろうから、内陸の谷あいに深く誘いこみ、そこで両翼からはさみ撃ちにして包囲せん滅しようというわけである。
まず緒戦は重装備歩兵によるかく乱戦法から始まった。当時の歩兵の重装備戦法は、青銅製の胸当てやかぶとで上半身を完全に防備した8~10人が1組となって、左腕で楯をもって自分の左半分と左隣の兵の右半分を防護するように密集隊形をつくり、右手のやりで相手側に肉弾戦をいどむのである。
アテネ軍の密集隊は駆け足でペルシャ軍に突進した。この予想もしない速攻に、弓矢をとるひまもなく、頼みの騎兵隊もいないとあって、ペルシャ兵はにわかに恐怖にとりつかれて浮き足だち、やがて大混乱から大脱走が始まり、われさきにと船へ逃げこんだ。
ペルシャ軍のししゃ6,400人に対して、アテネ軍はわずかに192人という大勝利をおさめて、朝のうちで戦闘は終末をつげたが、数少ない馬もすべて傷ついてしまった。勝報を一刻もはやく知らせ、またペルシャの騎兵隊の奇襲についても教えなければならない。そしてその伝令にふたたびピリッピデスが起用された。
ペケルミの村落から山の頂上パリニまで羊腸の道がつづく。初秋とはいえ残暑の日ざしは強烈で、生死をかけて戦ったピリッピデスの疲れた肉体に容赦なくふりそそぎ、汗都政名をしぼりとっていく。あえいでのぼり、あえいで下ってパパゴウの峠をまわったところで、景色は急に開けてアクロポリスの偉容が目にとびこむ。あと8kmである。死力をつくして最期の力走をつづけるが、なんどか転倒し、なんどか失神したにちがいない。待ちわびる市民たちのために……という一念で、市民たちが首を長くして待っているアゴラ(広場)にたどり着いたときは、意識が残っているのがふしぎなくらいであっただろう。
元老の胸にだかれた彼のうつろな目には、すでに生色はなくて、口だけがうわ言のように「み、みんな喜べ、わ、わたしも喜ぶ」とつぶやいた。「おい、しっかりしろ、どうだったのか」とゆさぶったとき、彼は幽明の境をさまよいながら、やっと「わ、わが軍、ア、アテネが、勝………った」とつぶやいて、人々の喜びと悲しみのなかで息をひきとった。
1896年、クーベルタン男爵によって近代オリンピックが誕生したが、同じフランスの言語学者ミシェル・ブレアル教授がマラトンの故事を思いだして、種目のなかに組み入れることを提案し、それが採択された。そして第1回のオリンピックから、「マラソン」という冠称で競技が始められ、現在におよんでいる。
ところで、史実と伝説はちがうし、伝説にも定説がなくて、マラソンの故事はナゾである。西洋史大辞典(京大研究室、創元社)によると、「青年ペイディピデスはアテナイまで約42kmを走りつづけ、勝報を伝えて息たえたのは有名、マラソン競争はこれを記念したもの」とある。そのペイディピデスは、岩波西洋人名辞典でみると「フェディピデス、前5世紀後半のアテナイ人、スパルタに援軍を乞うため約240kmを2日間で走破したという」とあり、平凡社外国人名辞典では、「古代アテナイの早飛脚、スパルタに急派され、240kmを2日で走破し、任をはたしたといわれる。近代オリンピックのマラソンはこの故事にちなみ創始された」とある。ブリタニカ大辞典にも、フェディピデスはスパルタへの使者であって、勝報を伝えた伝令とはされていない。
これらの根拠は、ヘロドトスの『歴史』のなかでピリッピデスがスパルタへ派遣されたことが明記してあるからであろう。
ブルタークの倫理論集には「エウクレスなる1市民が完全武装のまま走り、喜べわれら勝てりと一言いって死す」とあり、また別の名前としてテルシッポスやディオメデスなどがあげられていて、混迷を深めている。諸般の事情から、東大村川教授らの説「ローマ時代の劇作家ルキアノスがプルタークの創作ではなかろうか」という推理がいちばん当たっているような気がする。
たとえマラソンの故事がフィクションであっても、42k195mを走りむくという壮烈なスポーツであるがゆえに、神秘的でドラマチックな伝説に郷愁を感じないではいられない。

2.マラソン・レースの誕生
第1回オリンピック大会はゆかりのギリシャで開かれ、マラソンはマラトン古戦場の記念塚前からアテネ競技場まで走った。距離は40kmと公表されたが、あとで国際陸連が正式に計測したところ39,994m(一説には39,909m、または36,750m)であった。以降マラソン競争の距離は40kmが標準とされたが、かならずしも正確ではなくて、パリ大会40,260m、セントルイス大会39,909m、アテナ大会41,842m、ロンドン大会42,195m、ストックホルム大会40,200m、アントワープ大会40,244m(一説に42,747m)とまちまちであった。1924年にいたり、パリで再度のオリンピックが開かれたとき、1908年のロンドン大会のときの距離42,195mを今後正式距離にすることが決定した。
そのロンドン大会のときは、ウィンザー城からのロンドン市内のシェファードブッシュ競技場のロイヤルボックスまでをコースとしている。このコースを設定したとき、時の王様でスポーツ好きのエドワード7世(エリザベス女王の曾祖父)が「予はバルコニーからながめたい。ウィンザー城の庭園から出発せよ」と下知があって、それに従ったため従前よりも距離がのびて42.195kmとなったと伝えられている(アレクサンドラ王女の「スタート地点は宮殿の庭で、ゴール地点は競技場のボックス席の前に」と注文したために半端な数字になったとする説もある)。しかし、国際陸連アブラハム委員長が26マイルのコースを設定したが、385ヤード長くなって、たまたま42.195kmになったというのが真相のようだ。1968年ウィンザー・マラソンに行ったとき、まだ1マイルごとの鉄製の標識が家の壁などに残っていた。
このように42.195kmは偶然の産物であって、マラトンの野からアテネまでの距離(1927年に国際陸上競技連盟がマラトン-アテネ間を計測したところ36.75km しかなかったという。)というのは俗説にすぎない。では何故それまで定着していなかったマラソンの距離がこのロンドンオリンピックを以って42.195キロに定着したのか?それはこの大会での事件(ドランドの悲劇)によるものだという。その大会で、イタリアのドランド・ビエトリ選手が猛暑の中、何度も転び、倒れそうになりながらゴールを目指したが、見かねた係員(一説によると、コナン・ドイル、シャーロック・ホームズの作者)が手を掛けてしまい、1位でゴールしたのにビエトリ選手は失格となってしまったという事件である。失格となりながらも多くの人々に感動を与えたビエトリ選手を称えるため、規定の距離を定める際、ロンドン大会の距離を採用したという。